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高校野球・特待生問題の本質

10 月 30th, 2007 by 鳴神

 今年の春先から高校球界を騒がせている特待生問題ですが、未だに結論が出ていません。

 個人的に気になっているのは、関係者や評論家のあいだでさえ、この問題の本質を突いた意見が聞かれないことです。 中には、「他の分野では認めているのだから別にいいではないか」という短絡した言葉さえ教育関係者から聞かれます。

 私としては、そのことに憤りを感じるほどでした。果たして学校の利益を優先しているのか、それとも生徒の未来を優先しているのかどちらなのか非常に疑わしいほどです。

 そこで、この問題に対する私なりの意見をエッセイとしてまとめてみました。やや長文ですが、もしよければ読んでみてください。

はじめに

 今年は春先から、高校野球の分野でごたごたが続いている。原因は日本高等学校野球連盟(以下、高野連)がその憲章で特待生制度を禁じているにもかかわらず、現実にはそれを野球部員に適用している高校が非常に多数にのぼり、そのこと自体や対応のいかんが問題となったことであった。

 これが高校球界だけでなく世間でも大きな話題となっているのは、単に違反した高校が多かったせいばかりではなく、私立高校での特待生制度が当たり前になっている現状と高野連側の厳しい対応とのギャップが、一般の人々からすると極めて奇異に映ったためだろう。確かに、他のスポーツの分野では同制度を認めているのに野球だけ禁止するというのは違和感がある。

 とはいえ、高野連側の言い分にも一理ある。こうした特待生制度は実質的に金銭目的で野球をすることに繋がりかねないというリスクを常にはらんでいるし、基本的に同制度をとれない公立の学校が著しく不利になるという面もある。

 また、これは高校野球に限った問題ではなく、実は日本の教育界全般にかかわる非常に重要なファクターをいくつも含んでいる。しかし残念ながら、マスメディアをはじめ教育関係者でさえ、そういった大局的なものの見方をしているケースはまったくといっていいほどない。

 そこで本論では、単に高校球界について見るだけでなく、スポーツや教育の分野のあり方も含めて考察し、最終的に高野連が特待生制度を禁ずることが正当か否かの筆者なりの結論を出したいと思う。

 

何が問題か

 まず、そもそも何が問題となっているのかを明らかにしなければならない。現在、マスコミなどでの議論が錯綜してしまっているのは、さまざまな要素をはらんでいるこの特待生問題をすべて一緒くたにして考えようとしているためである。そこで、まずはその要素をひとつひとつ切り分けていきたい。

問題点1:実質的な金銭授受

 元々、高校野球における特待生問題に火がついたきっかけは、日本のプロ野球における不正スカウト問題が根因だった。これは本来禁じられているアマチュア関係者へのプロ側からの金銭授与が問題視され、結果的に高校野球の関係者もその槍玉にあげられることになったのである。

 アマチュア球界の側からそれを要求した場合もあったといわれているが、実質的にはプロ側の不正に巻き込まれた感が強く、高校球界の側はとんだとばっちりを受けたともいえる。この点では、プロの世界の問題とは直接的には大きな関係はないといっていい。

 しかし、この問題はひとつ大きなことを示唆してくれている。要は金がからむとごたごたが起きやすく、そのこととアマチュアの世界もけっして無縁ではないということだ。

 学校における特待生制度の場合、もちろん金を直接当該生徒に渡しているわけではない。しかし授業料を免除しているということは、たとえば通常は年間50万円の費用がかかる場合、これは実質的に50万円の“報酬”を与えているのと同じことである。

 これをスポーツ関連の優秀生徒に適用したとなると、それはスポーツの成績に応じて報酬を与えることに等しい(実際、同じ特待生でも成績によって待遇を変えている高校も存在するそうである)。これは、アマチュア・スポーツの世界において正しいことだといえるだろうか。

 その一方で、では金銭的に苦しい家庭の生徒は特待生制度が禁止されたらどうするのか、という現実的な意見も出されている。

 ともかく金銭がらみの問題、これが高校野球の特待生問題における第一の要素である。

問題点2:スカウト行為

 今では高校野球にかぎらずどの分野でも、成績優秀なスポーツ選手を自校へ勧誘するというスカウト活動が当たり前のように行われている。その際に学校側が“餌”として持ち出すのが、前述の特待生制度や設備の充実度、チームの強さなどだ。

 しかし忘れてはならないのは、あくまで高校における話だということだろう。プロ・チームではないのである。この点で、プロの下部組織であり、プロ選手を育成することを目的としているJリーグの下部組織とは決定的に異なる。

 そこで、アマチュア・チームが、それもたかが高校生レベルのチームのためにスカウト活動をする必然性が、そもそもあるのかどうかという素朴な疑問がわき起こってくる。これは、次の問題を引き起こすからだ。

問題点3:高校間の不公平さ

 最近では公立の大学が法人化されたことに伴い、私立以外のところでも特待生制度の導入を検討しているところがあるようだが、公立の高校では基本的にはそれはできない。となると、有能な選手への優遇措置をとっている私立高校とのあいだで力の差が出てきてしまうのは必然である。

 公立でも強豪校として有名なところは自然と選手が集まるからいいだろうが、そうではない無名校は悲惨である。また同じ私立高校でさえ、資金に余裕のあるところとそうでないところとでは格差が出てしまうのは当然だろう。

 つまり、金のあるなしでチームの強さが決まるという、まるでプロの世界のようなことになっているということだ。しかし、実際のプロと決定的に異なるのは同じルールの上で行われていないという点で、一方は有力な選手をかき集めることが可能で、一方はそれができない。プロ野球界では資金面での差はあるものの、活動の範囲は同じである。いわば、現在の高校野球の現状をプロの世界に当てはめてみれば、特定の球団にのみスカウト活動を認めているようなものである。

 それでも、公立の側は高校野球という同じ土俵の上で戦わなければならないのである。よって、常に不公平感がつきまとうことになる。

 現状、高校野球の分野で特待生制度が問題視されているのは、大まかに分けて以上のような理由のためである。次からは、これを高校球界だけでなく教育面、引いては社会的な問題としてとらえ、最終的な結論を導いていくことにする。

特待生制度の根本的な問題

 さて、今回の高校野球における問題は、日本の教育を考えるうえで非常に重要な示唆を与えてくれている。それは、特待生制度じたいがはらんでいる根本的なおかしさについてだ。

 ここからは、特待生制度の賛成派の意見に反論する形で、ひとつひとつの要素を見ていこう。

生活補助論

 一番大きな支持派の意見としては、生活苦の生徒を支援するために特待生制度は必要だとするものだ。これを“生活補助論”と呼ぶことにしよう。

 だが、これは最もオーソドックスな意見でありながら、最も意味のないものである。なぜなら、根本的な部分で考え違いをしているからだ。

 単刀直入にいえば、特待生制度と奨学金制度を混同しているのである。実際、日本語では「特待生」と「奨学生」がほぼ同じ意味で用いられているために、それは仕方のない面もあるのだが、英語では「an honor student」と「a recipient of a scholarship」とそれぞれまったく別の語が割り当てられているように、本来は性質の異なるものである。

 そこで、ここでは議論をはっきりとさせるために、成績優秀者に実質的な報酬を与えるものを「特待生制度」、生活困窮者などの救済のために学費免除などの手当を与えるものを「奨学金制度」と呼ぶことにして話を進めていきたい。

 生活補助論を考える場合、当然問題となるのは奨学金制度のほうである。つまり、家庭の事情などで経済的に苦しい立場にある生徒を支援するという意味ならば、これはおおいに正当なものである。もしこれさえも高野連側が禁じるというなら、それはもはや暴挙である。だが現実には、こういった場合には憲章違反とみなさないと高野連はすでに明言している。

 いわば高校野球の分野でも、より広く教育全般の分野でも、奨学金制度そのものはなんら問題となってはおらず、むしろ格差社会がさらに進んでいくであろうこれからは、さらに充実していかなければならない類のものであるといえるだろう。

 真の課題は、「特待生制度」にこそある。次に、それ特有の主張を考えてみよう。

インセンティブ論

 スポーツにせよ学業にせよ、成績優秀者にはなんらかの恩恵を与える。そうすれば当人はさらにやる気を出し、よりよい成長を見込める――これが、特待生制度を支持する人々が使う常套句である。つまり、報酬によってより頑張るという動機付けをするという意味で、これを“インセンティブ論”と呼ぶことができる。

 これは一見すると、まったくもって正当なもののようにも思える。しかし、基礎的な部分でやはり首を傾げざるをえないところがある。

 まず、そもそも特待生制度が生徒にとってインセンティブになるのかという疑問がある。確かに、学費の減免などの措置は大きいだろう。しかし、それは保護者の側にとってのことであって、生徒自身には直接的には関係のないことだ。生徒が自分で学費を払っているのならともかく、たいていは保護者が支払っている。しかも、現在の大半の学生・生徒は生活に困窮しているわけではないから、自分が“学校に行かせていただいている”という意識が、恐ろしいほどに希薄であり、結果として“親に楽させてあげようという”という気持ちが起こりにくくなっている。

 そういった生徒が、はたして学費が免除されたくらいでさらにやる気を出すだろうか。もちろん、何もないよりはあったほうがいいだろう。だが、特待生制度を正当化するほどには効果のほどはないのではないか。

 逆に、家庭の経済的状況が思わしくない生徒はがぜんやる気を出すとは思われる。しかしそういった場合は、前述のように奨学金制度のほうで支援してあげるべきであって、餌でつって無理やりインセンティブを高めるような方法は、倫理的にも問題があるといわざるをえない。

 また、“特待生”という一種の称号によって、生徒に不必要な優越感・エリート意識が生まれてしまうデメリットもある。余計なプライドを持ってしまった人間の末路は悲惨である。この点からも、やはり少なくとも教育の現場では避けるべきことではないだろうか。

 さらに、そもそも金銭的・物質的な報酬によって生まれるやる気などたかが知れているということもある。人が生きていくうえで、モノやカネも重要であることは事実である。しかし、究極的には人を動かす要因となるのは、けっしてそれらではない。

 たとえば、スポーツや研究の世界にかぎらず、世の中で大きなことを成し遂げた人々に話を聞いてみればいい。「あなたは、お金のために頑張ったのですか」、と。大半の人は、そうではないと答えるだろう。

 大事を為すことには、常に大きな壁がつきものである。そして、そうした壁を乗り越えるには金銭的なインセンティブだけでは不可能である。インドのマハトマ・ガンジーが独立運動に身を投じたのは金のためだったのか。マザー・テレサが生涯を通して“人のために”尽くしたのは金のためだったのか。こういった事例は枚挙にいとまがない。より身近な例、たとえば農業開発などにおいても、すばらしい業績を残した人物には意外に金銭の気配がないのである。

 中国・三国志の時代の英雄・諸葛亮が「志非ずんば学成らず」と説いているとおり、学業だけでなくどんなことも結局は志こそが最も重要なのであって、モノ・カネにかかわる即物的なことは副次的なことにすぎない。高い志・理想がなければ、一定程度のところまでは行けても真に壁を破ることはできないのである。

 それは、昨今の起業家や投資家が証明してくれている。カネのために動きつづけた結果がどうなるのか、これ以上ないほど見事に示している。

 その点、よりにもよって教育の現場で実質的な金銭的報酬を重視するとは、本末転倒にもほどがある。インセンティブ論を重視するということは、もはや教育者の側が“カネがすべて”と生徒たちに教えているようなものである。これが教育的に正しいか否かは指摘するまでもないだろう。

優秀者支援論

 もうひとつ特待生制度特有の要素として、優秀な生徒をバックアップするべきだという考え方がある。優秀な生徒は将来それぞれの分野で活躍する可能性が高いから、できるだけ支援してあげるべきだというわけである。

 これには、少なくともインセンティブ論よりは考察に値する部分がありそうである。事実、将来的な社会貢献の可能性が高いならば、積極的に支援するに足る理由は存する。

 ただし、それが特待生制度であるべきかどうかには「?」マークが付く。例として、学費の減免措置を考えてみよう。確かに、私学の学費分が浮けば家庭の経済状況はかなり楽になるだろう。しかし、その“浮いた分”を何に使うかは保護者しだいである。場合によっては、それを生徒本人とはまるで関係のないことに使ってしまうことも考えられる。こうなってくると、優秀者支援論は甚だあやしくなってくる。

 とはいえ、優秀者支援論のすべてが無意味というわけではない。問題は、学費の減免など既存の特待生制度のやり方では限界があるということだ。

 より根本的には、本人の側が必要としているかどうかもわからないことを一律に、しかも恒常的に与えることに問題がある。学費を浮かせてもその分を何に使われるかわからないのなら、生徒が自分を高めるために必要としていることに直接支援すればいいのである。

 たとえば、ある生徒が海外留学をしたいと申し出たら、その補助をしてあげる。どうしても必要な器具・資料が必要な場合は、それを集めるための費用を拠出する――などである。こうすれば、常に学校の収入が減ってしまうというデメリットを回避しつつ、やる気のある生徒の側は直接的にサポートを受けることができてメリットが増す。両者にとってポジティブな方法だろう。

 しかしこれは、可能なら優秀な生徒のみに限定すべきことではないはずだ。そうなると、優秀者支援論も特待生制度を容認する理由としてはあまりにも弱すぎるのである。

差別問題

 ここまでは特待生制度の擁護論者の意見から問題点を見てきたが、実はすべてに共通する根本的な課題が横たわっている。

 それは、生徒間における差別の問題である。たとえどんな理由があれ、特定の生徒のみを優遇するということは、逆をいえばそれ以外の生徒を差別するということになる。日本では特待生制度があまりにも一般的になってしまったがためにこの視点が見落とされがちだが、非常に重要なポイントである。

 優秀者を支援することでさらに能力を伸ばしてあげることも、確かに大切ではある。しかしそれと同時に、なかなか芽の出ない生徒を支えてあげることもまた重要であり、むしろ教育の現場ではそちらのほうが大きな比重を占めるともいえるだろう。

 すでに優秀な生徒は、放っておいても自分でどうにかするはずである。というよりも、そのように自ら頑張れるからこそ優秀な成績を収められているのである。

 ならば、やはり本来はいわゆる“落ちこぼれ”を支援することこそが教育の本質であり、それができなければ教育機関としての存在意義はないとさえいえる。なかなか上手くいかずに悩んでいる生徒を救えるかどうかが学校としての価値基準であり、反対にそれができずに優秀者のみに頼るようではもはや未来はない。

 その点、高校野球の特待生問題が起きて以降、一部の高校関係者が特待生制度によって優秀な生徒を集めなければ他の生徒もやってこないといったニュアンスの発言をしたことは、自ら教育者としての無能を宣言しているに等しい。これを「語るに落ちる」という。どうやら、日本の高校における教育者のレベルは著しく低落しているようである。

 繰り返しになるが、特待生制度は実質的に差別のシステムなのである。優秀者を支援することは重要だが、それが他の生徒と差をつけることの、特に年間数十万円もかかる授業料に決定的すぎる差をつけることを正当化する理由にはならない。

 私学の関係者は特待生制度が学校の経営維持の重要事項と考えているようだが、特待生制度を受けられない生徒やその保護者の気持ちを真に考えているのだろうか。今のままでは、私学自体が苦しい立場に追いやられる可能性が高いように思う。

 このように、高野連の対応うんぬん以前に、実は特待生制度そのものが本質的に問題をはらんでいるものなのである。それに頼ろうとする学校に未来があるかどうか、それが当たり前の社会に希望が感じられるかどうか、それについては読者諸氏がそれぞれ自分で考えてほしい。

教育とスポーツ

 さて、ここまでは教育の場における特待生制度に的を絞って考えてきたが、次からは教育とスポーツのあり方について触れていきたい。

 日本では、学校がスポーツに力を入れることが当たり前となっているが、実際は世界広しといえども学校が部活動という形でスポーツを全面的に支援しているのは、日本・韓国・米国の三国のみである。少なくとも筆者の知るかぎり、先進国の中ではそれらだけのはずである。

 これには共通した社会的事情があり、それは総合スポーツ・クラブが基本的に存在しないことであって、日本でスポーツ・クラブというとトレーニング施設やプールのあるジムを思い浮かべるだろうが、ここでいう総合スポーツ・クラブとはより大規模な、文字どおりあらゆるスポーツを楽しめる地域密着型のクラブのことである。

 ヨーロッパではこれが充実しているため、学術的な教育は学校が、そしてスポーツ教育はクラブがという役割分担ができている。もちろん体育系の学校も存在するが、それらは基本的に研究者や指導者・インストラクターを育成するための場であって、選手を育てることが目的ではないことが多い。その点、日本の体育系の学校とは一線を画する。

 残念ながら日本ではそうしたクラブがほとんど存在していないから、その代役として学校の部活動が存在しているともいえるものの、現実にその弊害は大きく、たとえば小・中・高の一貫教育ができないことなどが挙げられよう。それ以外にも種々のデメリットがあるが、それについて以下にくわしく見ていく。

素人が指導する?

 ヨーロッパのクラブの場合、たとえジュニア世代の指導者でも学校できちんとした教育を受け、指導者やインストラクターの資格を持っている場合が多く、いわばプロフェッショナルが選手の育成を担当している。

 ところが日本では著しく状況が異なる。部活動の監督といえど、スポーツ医科学など専門的なことを学んだことのある教育者は極めて少なく、トレーニングなどにかかわる資格を持っている人物となるとほとんど皆無に近い。大半が選手としての経験があるだけで、いわば指導者としては本来アマチュアの人々が専門家づらをして、選手にあれこれと命令していることになる。

 これが、学校教育におけるスポーツ指導の限界のひとつである。体育系の学校でもないかぎり専門家がいることは少なく、また体育系ではないからこそスポーツに学校のリソースを割くことにはおのずと限界がある。

 この点が、そもそも通常の教育機関が必要以上にスポーツに力を入れる必要があるのか、それ以前にまともな指導が可能なのかという、当然の疑問を裏付けする論拠のひとつとなっている。

学校の売名行為に利用される

 結局、これが現在の国内における学校スポーツの最大の問題点であろう。なぜ体育系でもない学校が、やたらとスポーツ活動を支援するのか。

 その理由はもちろん、スポーツ・チームの活躍によって学校の名前を売るためである。教育の一環としてであるとか、選手育成のためであるとかいった理由は立て前にしかすぎないことは、すでに大半の人が気付いているだろう。

 何度もいうが、そもそも学校がスポーツに力を入れることを正当化する理由自体がないのである。これは、体育学科のある学校も変わりがない。なぜなら、そもそも将来的にスポーツをすることそのものを職業にする、すなわちプロの選手になれるのはほんの一握りの人々だけだからである。

 よって、指導者やインストラクターを育成する必然性はあっても、きわめて低い可能性のために選手育成に学校が注力する必然性はない。そんなことよりも、“もしもプロ選手になれなかったときのために”他の選択肢を与えてあげることのほうがよほど重要なはずではないか。

 この点、ドイツでは徹底されている。教育界全体がなにかひとつ職業として活かせるスキルを身につけさせることを前提としているため、プロのスポーツ選手でも他の資格を持っていることが多い。たとえば、サッカーの世界で「皇帝」と謳われたベッケンバウアーは保険外交員の資格を有し、90年イタリア・ワールドカップで優勝し、先のドイツ大会では同国の代表監督を務めたクリンスマンはパン職人としての能力を持っている。非常に現実的なのである。

 逆に日本では、プロ選手という夢を見せるばかりで、もしもの時の備えがまるでできていない。それどころか、学校関係者や指導者があえて生徒たちにそのことを考えさせないようにしている節さえある。

 人は夢を見るものである。ある面では、プロ・スポーツへの憧れも宝くじと似たようなところがあり、当たる可能性はきわめて低いが、“当たるかもしれない”というわずかな可能性に希望をもつのである。プロ・スポーツの世界は、選手のそうした心理を巧みに利用しているともいえる。

 だが、いかに夢を見ようとも、プロの選手になれるのはほんのわずかな人々だけであり、プロの世界で生き残れるのはさらに少数であるという現実に変わりはない。だからこそ、教育機関がそうした博打的なことに進んで生徒たちを駆り立てることは、本質的に大きな問題があるといわざるをえない。

 また、これには別の要素も潜んでいる。それは“ごまかし”である。他の問題が存するときにこうした“宝くじ効果”をうまく利用すれば、周りの目をそらすことができる。これは、アメリカン・ドリームにも共通しており、実際にドリームを達成できる人物はほとんどいないのだが、人々はそれを夢見る。しかし、なぜ米国でこうしたアメリカン・ドリームがもてはやされているかといえば、それは社会的な不満をそらすためという要因が大きい。現状がつらくとも、これが未来における成功への礎だと思えば我慢できてしまうものなのである。未来の成功など、なんら確約されていないというのに。

 こうした“宝くじ効果”が、日本のアマチュア・スポーツ界には蔓延している。選手たちはプロになることを夢想するが、現実的なことをまるで考えようとしない。目の前のことをとりあえず頑張るという態度は大切だが、先にも示したとおりプロへの道は博打的なものである。プロになれる可能性はきわめて低く、たとえ能力的に十分であったとしても怪我やその他の外的な要因でプロの世界ではやっていけないこともある。努力をすればある程度はものになる、工業技術系など他の分野とは決定的に異なるのである。

 ここで最初の問いに戻ることになる。そうした非常に限られた可能性の分野に、選手たちをあえて向かわせる必然性はどれほどあるのか。確かに、将来的な可能性を広げてあげることは重要ではあるものの、その一方できちんと現実を見据え、もしもの時のための備えをさせることも教育の面では重要ではないのか。

 この点、現在の教育機関はプロの競技団体よりひどい面がある。たとえばJリーグではセカンドキャリア支援という名目で、プロ選手としてやっていけなくなった場合に備えて、他の職業の体験や専門学校への通学を積極的に支援している。

 プロの分野でさえこうなのに、学校のスポーツ分野を見れば強豪校ほど選手をスポーツ漬けの毎日に陥れ、生徒たちの将来のことを考えようともしない。プロ選手になれるのならばいいが、もしそうでなかったとき、基本的にスポーツしかやってこなかった生徒たちは将来いったいどうすればいいというのか。

 今の時代、体育会系特有のコネクションもあまり期待できない。実業団スポーツが下火の状況では、選手としての能力で就職することも難しい。

 となると教育機関、特に高校でいたずらにスポーツばかりをさせることは、デメリットがあまりにも大きいのだが、私学の側は未だに積極的にスポーツに力を入れていることに根本的な問題がある。

 結局、スポーツ分野で学校の名前を“売る”という野卑な目的があるから、さまざまな面で弊害が出てしまうのである。仮に、純粋に選手の育成そのものに力を入れるのだとしても、先にも示したとおり本来の教育のあるべき姿は下の者を上へ引き上げることであって、優秀な人物をかき集めて強いチームを作ることではけっしてない。そんなことをしたら、かえって他の選手が活躍する機会が失われ、成長の可能性を奪ってしまうだろう。

 ここまで見てきたように、教育機関がスポーツに力を入れるのはその宣伝・広告のためというニュアンスが非常に強いのである。百歩譲って普通科の学校がスポーツ選手育成に心血を注ぐことをよしとするにしても、スカウト行為を正当化できる理由はどこにもない。たとえ地域交流だの学内の活性化だの理由付けをしようとしても、それは立て前の域をけっして出ないのである。

セミプロ化の弊害

 上記のことと関連して、アマチュア世界がセミプロ化してしまっていることの弊害もある。

 すでに述べたように、スポーツの成績に応じて特待生制度の適用の可否を決めている以上、そのことが実質的な選手たちへの“報酬”となっていることは明白である。つまり、現在の学校スポーツはもはや半分プロ化してしまっているといっても過言ではない。

 こうなると、困るのは選手たちの側である。特待生としての優遇措置を失いたくなければ、コンスタントにいい成績を残すしかない。反対に、もうそのスポーツをやめたいと思っても、特待生として在籍している以上、やめるにやめられないという状況が発生する。

 これは以前から指摘されていることで、仮にやめられたとしてもスポーツ推薦で入学した場合はやはり常に肩身の狭い思いをすることになる。こうした点にも、学校がいたずらにスポーツに注力することの弊害が出ているのである。

 そこで改めて考えてほしいのが、高野連の憲章十三条によって特待生制度を禁ずることが本当にいけないことなのかどうかということである。これらの結論については、最後に述べることとしたい。

 このように、通常の教育機関がスポーツ選手の育成に力を入れることそのものに、実は大きな問題が含まれているのである。それは取りも直さず、スポーツ選手を育てるということは教育的にも社会的にも、実はきわめて特殊なことであるためなのである。技術者の育成などとは、まるで性質が異なる。そのことを現在の教育関係者は、果たしてきちんとわきまえているのだろうか。

むすびにかえて

 最後に全体の総括をし、もう一度高校野球の問題に立ち返ってみよう。

 ここまでの説明でおそらく大半の方には、高校野球うんぬん以前に特待生制度そのものが教育上問題があり、またそもそも高校のような教育機関が“スポーツ選手の育成”に力を入れることのおかしさと弊害を理解いただけたと思う。そこで、ここからはその内容をくり返すのではなく、今後のことについて触れておきたい。

 まず少なくとも、スポーツ分野に限らず学校側がスカウト行為をすることを全面的に禁止すべきである。その必要性がないことと問題点についてはすでに述べた。

 この点に関しては、コンセンサスができつつあるように思われる。文科省の大臣も自民党員も、一方では他のスポーツでは認めているのだから高校野球でも特待生制度を容認すべきなどという、物事の本質をわきまえない短絡した意見を述べつつも、他方ではスカウト活動によって有力選手をかき集めることを問題視しているという点においては一致している。

 そもそも高野連は、特待生制度をどうこう言う以前に、スカウト行為そのものを明示的に禁じればいいのである。スカウトができなければ、実質的に特待生制度は有名無実化する。それを適用する相手がなければ意味をなさないからである。以前から中学生への勧誘行為は禁じられていたものの、残念なことにその抑止力は弱かったといわざるをえない。さらなる防止のために、これからはより厳しい罰則が必要かもしれない。

 ただ、さらに突き詰めて考えれば、文科省をはじめとして政府の側の対応がこれまでずさんだったことが根因ともいえる。私学を放っておけば、特待生制度などによって学校の売名行為に走るのは自明のことであり、それに対して事前に歯止めをかけるべきではなかったか。

 しかし、やはり情けないのは私学の側の関係者である。特待生制度は学校教育法上問題がないから高校野球でも認められるべきだとする意見が根強いが、これはあまりにも程度の低い考え方である。問題は若年層の教育にかかわる重要なことなのだから、法的に正しいかどうかが問題なのではなく、あくまで社会的な立場から教育上正しいかどうかをこそ議論すべきなのは当然だろう。

 それを既存の法や制度に合致しているからOKとするのは、つまるところルールに合致している以上何をしてもいいという、きわめて粗野な考えに基づくものである。これが教育者のいうべき言葉だろうか。

 ルールに合わせればそれでいいのではない。法や規則以前に、自身の行動が社会的倫理に合致するかどうかをそれぞれが自ら考えることが重要なのであって、ルールとはいわばもしもの時の歯止めにしかすぎない。法や規則がすべてなのではなく、まったく反対にそれらは不測の事態に備えた緊急停止ボタンのようなものである。

 法や規則は人の悪を前提としている以上、それを超えるものではけっしてない。いわば悪のための“必要悪”であって、ルールは少なければ少ないほどいいのである。万全の法など存在せず、結果として無実の人を縛ってしまうリスクがあるということを忘れてはならない。

 現に国家にせよ企業にせよ、うまくいっている組織は余計な規則が少ないという傾向がある。ひとりひとりが自ら正しいことを、ひとりよがりにではなく社会的倫理に照らし合わせたうえできちんと考えられるのなら、法や規則といった類のものは究極的には必要ないのである。

 本来、こうしたことをこそ教師が生徒の側に伝えてあげなければならないのに、教育者の側がまったくもってくだらない意見を堂々と述べている。特待生制度に関係なく、そもそも教員としての資格があるのか、はなはだ疑問である。

 そもそも、現状のままでは学校側にとってもメリットが乏しいだろう。改めて指摘するまでもなく、特待生が増えれば増えるほど学校側の収入は減る。これは当然のことである。しかし、特待生制度を生徒集めのための重要な“餌”だと考えると、その適用者の数を減らすわけにはいかず、一方でその宣伝効果を期待するならむしろ増やす必要さえある。すると、学校側の収入はさらに減ることになり、こうした“負のスパイラル”は特待生制度を存続するかぎり止まらない。

 しかも、スポーツ競技の成功によって学校の知名度を上げることができたとしても、それが入学希望者の増加につながるとは限らない。むしろ現状では、学業を重視する生徒・保護者が多く、場合によってはスポーツ分野での活躍が「学業をおろそかにしている」というマイナスのイメージを誘発しかねないものである。

 このデメリットに気付いた私学は確実に増えている。たとえば北海道の駒大苫小牧高校の野球部が急激に力をつけたのは、周辺の他の学校がスポーツよりも学業に力を入れはじめ、結果として優秀な選手が同校に集中したためだといわれている。

 へんに受験勉強ばかりに力を入れるのもそれ自体別の面で問題があるが、いずれにせよ現状は大半の生徒・保護者がスポーツ選手としての育成を最優先事項として考えているわけではないということに注意する必要がある。あなた自身が、高校進学を控えた中学生やその保護者の立場になって考えてみてほしい。特定のスポーツが得意ならいざ知らず、そうでないのにスポーツの強豪校に魅力を感じるだろうか。「スポーツで活躍→学校の知名度上昇→入学希望者増加」という私学が望む連鎖は、これからさらに難しくなっていくと思われる。

 つまり、いま学校側に求められているのは真の“教育力”なのである。これは優秀な生徒をさらに伸ばすことだけでなく、現状うまくいっていない生徒たちをどうにかして引き上げてあげることをも意味する。その教育力のアピールのためには、なおさら特待生制度といったものは必要ないはずではないか。

 一連の騒動によって槍玉にあげられたのは、どちらかといえば高野連のほうであった。その頑なで旧態依然とした体質は確かに責められるべき点は多いものの、少なくとも今回の特待生問題に関しては高野連側の意見のほうが理にかなっていると思われる。

 高校生やその保護者、そして教育関係者だけでなく一般のわれわれも、「他のスポーツがやっているのだからいいじゃないか」とか「頑張っている生徒に報酬をあげたっていいじゃないか」といった短絡した考え方をするのではなく、物事の本質を見定めていくべきではないだろうか。そうした態度がスポーツ関連のことがらだけでなく、さまざまな社会問題を解決するための糸口になるはずである。

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