8 月 4th, 2007 by 鳴神
日本語の文章では、読点「、」の使いはやや特殊です。海外の言語の場合、読点を打つところはたいてい文法上決まっているのですが、日本語ではそれがありません。
そこで、あくまで読みやすさを優先して読点を打つことになるわけですが、これがなかなかの難物です。打ちすぎるとかえって読みづらくなり、少なすぎるとやはり読みにくいものです。
基本は、ひとまとまりの意味をなしているところが終わったところで読点をつけることです。接続詞(しかし、そしてetc.)の後につけるというのもよくありますね。また、主文節(私は、その犬はetc.)のあとも同様です。
しかし、書き手の意識としては極力少なめにするということでいいのではないでしょうか。読点が多すぎる読みにくさよりも、少なすぎるそれのほうが遥かにましです。
私は今パソコンでいろいろな文章を書いています。
私は、今、パソコンで、いろいろな文章を、書いています。
そこで実際に書いているときは読点を少なめにして、後で推敲するときに読みづらいところに点を打つという形がおすすめです。
とにかく自分で読んでみる、そして文章の流れが悪いところを工夫するというのが文章書きの基本ですね。
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7 月 16th, 2007 by 鳴神
ケータイ小説は独特の文章フォーマットがあるようです。もう一度、その特徴を示した箇所を『シロクマ日報』から引用させてもらいましょう。
横書きで表示される
単に横書きなだけでなく、段落の変り目やセリフの前後に余白が取られ、読みやすくなっている
センテンスが短く、漢字が少ない(書くのも読むのもケータイだから)
こうしたことから「こんなのは小説じゃない」とか「稚拙すぎる」とか、人によっていろいろな意見を持たれるでしょう。しかしある意味では、書き手の側が読み手のニーズにうまく合わせているという面もあります。
縦書きと横書きについて触れたように、文章を書くうえではその読者を意識することが大切です。というより、そもそも何かを文章に書いて残すということは、自分のための忘備録というニュアンスもありますが、基本的には他の人にその内容を伝達するためにすることです。よって、受け手(読み手)が理解しやすいように書くというのは、本来当然のことです。
ここから言えることは、若年層向けのものにはそれに応じたわかりやすい文章を、専門家向けには多少難しくとも内容のしっかりしものを、といった感じで状況に応じた使い分けが必要だということです。
なので、結果として仮にテーマは同じであっても、文章の書き方や体裁を変えることは重要なことなのです。
たとえばルビを振る場合も、玄人向けなのにやたらと読み仮名を付けるのはかえって読みづらくするだけでしょう。反対に低年齢層向けなのに難読語にルビがないのでは、理解以前に読みにくくてかないません。
そういったことにならないよう、初めから難しい表現を避けるといった工夫も必要です。逆に文学好きの人には、あえて凝った表現を用いてみるのもいいかもしれません。
ただ気を付けたいのは、あまりに読者を意識しすぎると彼らに迎合するような文章になってしまいかねないリスクがあることでしょうか。また、作者本人が本来表現したかったことからずれてしまう可能性もあります。
要は何事も程度問題ですが、読み手の層を意識するのは大事なことだということですね。
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7 月 15th, 2007 by 鳴神
いま携帯電話向けの小説、通称「ケータイ小説」がすごい人気です。以前にも触れましたが、ケータイ・サービスとして好評を博しているだけでなく、本として出版した場合もベストセラーになるくらい売れています。
先日紹介した『ダ・ヴィンチ』7月号の記事に、このケータイ小説の特徴が記されています。同じく『シロクマ日報』がうまくまとめてくれているので、それを引用させてもらいましょう。
- 横書きで表示される
- 単に横書きなだけでなく、段落の変り目やセリフの前後に余白が取られ、読みやすくなっている
- センテンスが短く、漢字が少ない(書くのも読むのもケータイだから)
ケータイにうまく適応しているなという印象ですが、それ以上に感じたのは現在は“手軽さ”が求められているということです。
実際に『魔法のiらんど』などでケータイ小説を読んでみればわかりますが、小説より詩といった感じのものが多いようです(この辺、詳しくないので実際は違うかもしれません……)。
これは世相を反映しているのでしょうか。書店に並ぶ人気の本を見ても、“わかりやすく”、“あっさりしている”ものが多いです。また映画やテレビ番組でも、小難しいものより単純なものばかりですね。
それ自体否定するつもりはないのですが、重要なテーマを扱った文章はどうしてもわかりづらくなる部分が出てきてしまうものです。もちろん、“難しい=内容がある”、“簡単=内容がない”というわけではありません。
しかし、気になるのは作品の内容よりも、わかりやすいものばかりを求めるその人自身がどうなってしまうのかということです。結果として、読解力=理解力が弱くなってしまうのではないでしょうか。
現実の世界には、難しい問題があります。というよりも、現在は非常に難解な社会問題ばかりです。そういった中で、自分自身が何かの問題に直面したとき、わかりやすさを求めていた人々はみずから課題を解決することができるのでしょうか。妙な不安を感じています。
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7 月 14th, 2007 by 鳴神
先日、文章の縦書きと横書きについて触れましたが、それに対する有用なコメントをいただきましたので、それにお答えする形で今回のエントリーは記していきたいと思います。
「状況によりけり」でも良い程度の文章なら最初から横書きで十分だと思います。
確かにその通りかもしれません。ただ、難しいのは個人の好みがあるということでしょうか。たとえば、私自身はどういったタイプの文章でも縦書きがいいと感じるほうです。
また、そもそも「良い程度の文章」が実際にどれくらいのレベルなのかは、けっきょく主観的なものに委ねられると思いますので、やはり一概にどちらがいいと言い切るのは難しいでしょうね。
書き手が「これは縦書きでじっくり読んでもらいたい」と思うのであれば、そのような文章を横書きに変換して読み飛ばすのは失礼というもの。
書き手の意思を尊重すべきということですね。ご指摘のとおりだと思います。私の場合、この視点は抜け落ちていました。
ただそれを踏まえたうえで私見を述べさせていただくと、個人的にはそれでも読み手による文章体裁の変換は許されると思っています。基本は、読み手の読みやすさが優先されるべきではないでしょうか。たとえば極端な例ですが、障害者向けに点字や音声への変換が許されるように、やはり読み手ありきの考え方もひとつ考慮に値する気がします。
特に現在のように文章を読むと一口にいっても、PCやケータイ、PDA、電子書籍端末などさまざまなメディアが存在する場合、インターフェイスに応じた変換というのはむしろ当たり前になりつつあります。
例として『青空文庫』を考えると、基本的にすべて横書きで提供されていますが、『azur』や『T-Time』などのソフトウェアを利用して、縦書きで読んでいる方も多いようです(もっとも、ほとんどの作品は本来縦書きだったわけですから、その点は考慮に入れなければなりませんが)。
結局は、書き手の考え方も“人によりけり”ではないでしょうか。縦書き・横書きにこだわりのある人もいれば、それをほとんど意識しないで書いている、もしくは自由に変換してもらってかまわないと思っている人もいるはずです(かく言う私もこの部類です)。
要は書き手、読み手どちらの立場からどう考えるかによって、だいぶ結論は変わってくるということですね。答えはひとつではないと言い換えてもいいかもしれません。
ここまでの話を私なりにまとめると、すでに大半の文章が横書きになっていますし、大半のメディアがそれに合っているものですから、基本は横書きで、そして書き手・読み手それぞれの意図を踏まえたうえで、やはり作品の内容をふくめて“状況に応じて”どうするかを決めていくしかないのでしょうね。
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